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文句便所

日々のストレスを世間様に対する文句にして吐き出す下衆なブログです。しかも主観で物事を決め付けるのでタチの悪さは天下一品です。

なぜ不謹慎だと思ってしまうのか

気に入らないことがある。

不謹慎という言葉である。

 

先日の熊本地震によって幾人もの人が苦しみ、幾人かの命が奪われた。

非常に痛ましいことである。

それに応じて哀悼の意を表す人もいれば、便乗して他の国を論ったり首相を罵倒したりする人もいる。

 

後者も中々異常だが、私が気に入らないのは「不謹慎じゃないですか」というやつである。

 

不謹慎。

非常に強力で便利で厄介な言葉である。

 

何より人が苦しみ、死んでいるのだから相手の持ち出す些細な論理は、

「人の死も気にしないなんてなんて奴だ」

というロジックで相手に罪悪感を植え付け、相手を即座に更生させる劇薬である。

 

しかし、今回はロジックが完全に崩壊しているケースが非常に多い。

 

芸能人に対して「笑顔が不謹慎」だの「震災を売名に使うな」だのすばらしいお言葉の数々が聡明な方々から送られている。

中には実家が倒壊しただけで叩かれてるすさまじいケースも有る。

 

かの方々によれば

「苦しいのはあなただけではない」

「かわいそうな私アピールやめろ」

との事である。

 

なぜ芸能人が特に叩かれるのであろうか。

有名税というのもあるだろうが、(それはそれで醜悪な理由ではあるが)「理由があるから」という事で叩いている人も少なからずいるだろう。

 

「理由がある」とはどういうことか。

「心配です」という発言に対して「煩い」というのは有名税の範疇で済む話である。

しかし、人の苦しみを心配しているのに「不謹慎」と人間性まで否定するのは「有名だから」で済ませるには明らかに攻撃的な行為であるし、実家が倒壊した人の件に至っては明らかな敵意がないと不謹慎と言えないレベルだ。

 

そう、芸能人に対する不謹慎コールで特徴的なのは「攻撃性」と「敵意」なのだ。

普段から叩かれることの多い芸能人ではあるが、有事の際には事さらにバッシングを浴びる傾向にある。

 

「人の苦しみ」や「人の死」というのはあまりにもショッキングであるがゆえに「理由」としては非常に力を持ちかつ利用しやすい一面があり、この強力な「理由」が普段は押さえつけられている「攻撃性」と「敵意」のリミッターを外すのである。

 

今回の芸能人叩きで特に注目すべきなのは、紗栄子が五百万寄付を公表してバッシングを浴びた事である。

まず紗栄子という人物がなかなかバッシングされやすいという理由もあるのだが、五百万という大金の寄付。なかなか出来ることではない。

この「なかなか出来ることではない」というのが重要だ。

 

普通の人にはできない行為を平然と行うというのは、普通の人のある感情を著しく刺激する。

それは「嫉妬」である。

 

嫉妬というのは自分への無力感や、自分が価値を置くものを失う恐怖が引き起こす強い感情である。

 

震災という各々の人間性が試される状況で、自分より遥かに強力な貢献が他人、しかも個人から行われる。

 

自分にではできない事をされる。自分はこれができない。自分はコイツよりもダメなのか?いやそんな事はない。コイツは自分のような高潔な精神で寄付をするはずがない。だって500万だ。儲けてるな…そんな大金普通手放せるか?―もし本当にそれが良心で行われていたら?いやありえない。まるで自分が駄目みたいじゃないか。でも自分は駄目じゃない。現に自分はこんなに心を痛めている。それなのにこいつはなぜこんなことをするんだ?きっと不正があるに違いない…

 

上記の思考は完全に私の妄想であるが、他人に嫉妬するときのロジックをかなり忠実に再現したつもりである。

自分の無力さへの嫌悪と、他人との差によって傷つけられそうな自尊心の拒絶反応は嫉妬の王道パターンだ。

それに紗栄子という強力な嫌われ要素が加われば、例えどんな大金の寄付であっても嫌悪の感情が混ざり合って憎しみに変わりバッシングを容易にするのである。

 

もちろんすべての人が上記の理由で叩いているというわけではない。

 

しかし、なぜ私がこれを気に入らないというかといえば、嫉妬を憎しみに変えた攻撃というのが非常に嫌いだからだ。

 

全くの主観である。

 

自分の無能を棚に上げて他人の成功を否定して人間性を否定し、まるで自分の方が人間的に優れているとでも言いたいのだろうか。

しかも、相手は一般の個人を相手に反撃してくる可能性が極めて低い芸能人である。

動物の檻の外から石を投げて叩き殺し、「俺は強い」と言っているようにしか感じず、その卑怯極まる感性に嘔吐を禁じ得ない。

身の程知らずとはこの事だ。

 

前回と全く同じことを言うが、「相手が悪なら何をしてもよい」と言うのはただの狂気とわがままでしか無い。

 

人が苦しんでいるならその苦しんでいる人に直接自分が出来るだけのことをするべきで、出来ることがないなら出来るようになるというのが、苦しみを無くす最短の手段ではないだろうか。

攻撃だけならアリでもできるのだ。

殺人鬼の作り方

気に入らないことがある。

「いじめられる方もいじめられる方」だとかというやつである。

確かに何らかの原因があるからからかわれるのはわかるが、この論はただの逃げにしか見えないのだ。

 

大体いじめという言葉も気に入らない。
なんだかよくわからないけど、ひどそうな言葉ではあるが逆に行われていることが曇ってしまっているようにも見える。

 

いじめられる人というのは要するにいじめやすい、私はいじめという言葉に納得が言っていないのでバカにされるという言葉に置き換えさせてもらうが、バカにされやすい人ということでもある。

 

そしてバカにされやすいということは、今までもその標的にされ続けてきたという事でもある。
そうなってくると、その人は今まで受けてきた行為に対する感情を常に溜め込んでいる状態になっている。

 

他の所でガス抜きできれば良いのだが、あまりにも追い詰めすぎると逃げ場を無くした負の感情が異常な速度で溜め込まれていく。

 

それがどんな形で爆発するかはわからないが、ロクな結果にならないパターンが多い。

 

実際、多くの連続殺人犯は大抵このパターンか親の虐待、又はこの合わせ技で作られていく。


大げさに思われるかもしれないが、殺戮の側に立つ者の大多数は大きな不満や不信を抱えている者だ。そうでない場合はグレアム・ヤングのように先天的に狂っていたり、大久保清のようにずっと幼稚な精神を持ち続けていたパターンが多い。

 

要するに、バカにされる要素があるからしょうがないといってバカにし易い人をバカにしていくと、いつかその爆発スイッチに触れてしまい連続殺人犯の栄えある被害者第一号になるかもしれんのだ。

 

「じゃあ誰が誰だかわからないようにバカにすれば連続殺人鬼にはならないし殺されないよね!」だとか、「私は加担してないから殺されない!」というわけにもいかない。
相手が誰だかわからなかったり、周りのフォローがないと、周りの全てが敵に見え始めるためだ。

迷惑な話だが、救いが与えられなかったり、対象が特定できなかったりした場合、周囲が信用できなくなるのは当然ではないだろうか?
こうなってくると敵意の対象は目に見えるもの全てになり、暴走して出来上がるのが無差別殺人犯である。

 

無差別殺人犯の肩を持つつもりはないが、彼らの言う「誰でも良かった」というのは本当に誰でも良いのではなく、「敵なら誰でも良い」という事のように思われる。
その敵の数があまりにも多いので結果的に「誰でも良い」になるのだと思う。

 

安易に人をバカにしたり、制裁を私的に加えたりするというのは最悪こういったところに繋がる可能性がある。
確かに楽だしなんとなくスッキリはするが、反省を促すには遠周りがすぎるので効果は望めないだろう。


しょうがないという理由が出てくるならばただの自己満足か、身の回りの不満をスケープゴートにぶつけてるだけで、別に正当性はどこにもないのである。

 

1つ考えて欲しいのは、本当に何の理由も無いのに無視したり、靴を隠したり、「死ねばいいのに」と言う人がいたとしたらあなたはどう思うだろうか?
あなたがどう思うかは私にはわからないので決めつけることはできないが、私は酷い奴だと思うだろう。

 

ところが、別に人を傷つけているわけではないのに、「空気を読まない」「和を乱す」「キモい」といった理由が1つでも加わるだけで上の行為が「しょうがない」「当然の事」に早変わりするのだ。

 

まさに正義の狂気だ。
1つの正当性があるだけで人は100の悪徳が行えるのだ。


「法律には罰がある」
という人も居るだろうが、空気を読まないというのは法律違反として規定されていないし、法律違反になる悪質なものに罰といった強い方法がとられるべきなんじゃないだろうか。

因果応報だとしても、1の悪徳であるならば1の悪徳で応酬すべきだ。

 

正義というのは、何をやっても良い免罪符ではない。
悪の行為を取り除きたければ、相手に納得してもらった上でその行為を止めてもらう等、最初の段階があって然るべきだ。
その努力さえ行われずいきなり罰に移るのは短慮という他無い。

 

そもそも、「悪いから止めろ!」などという説教も気に食わない。
あれだけ子供向けのアニメに出てくるばいきんまんでさえこれで納得したことはない。

 

人間の行為は基本的に正しいとその人が思っているから行われるのだ。
正しいことをいきなり悪いと言われてムッとしない人間のほうが少ない。

 

不良であっても、ワルは「カッコイイ」という正当性があるから悪い事をしているし、
愚連隊のようなろくでなしも「社会は俺たちを受け入れてくれないから」悪いことをする、「俺たちは縛られず自由に生きたいから」悪いことをするといった、極めて自己中心的ではあるが正当性を持っている。

悪いことだという自覚があっても「~だから」という理由がワンクッションがあるからそれができるのだ。
連続殺人鬼や大量殺人鬼であっても「社会に復讐するためだ」といった理由をもって犯行を行う。

 

「しょうがないから」という理由で誰かに石を投げると、「しょうがない」という理由で人が殺され、最悪の場合「しょうがない」という理由で自分にナイフとかが飛んできても「しょうがなく」なってしまうのである。